わっちのブログ

日常のはきだめ日記 立ち止まって、振り返る場所

とろとろブログ

最近の日々の訴えとして、1日に対しての口数が圧倒的に減ったと感じる。

学生のときの身近な友人との会話、家族との会話、それがどれだけ大切だったことか。

「口を動かして声を発する」ということに意義があることを知った。知ったというか、私の中の柱、ルーツとも言えばいいのか。そういうものが発する声である「音」であったり、人と直接話すということだった。

今年新社会人となり、ある意味人との交流が勝手に流れてくるものかと勝手に思っていた。現実はそうでなかった。同期がそこに居るならまだしも、「仕事」という囲いの中。黙々と業務をしては報告、相談、エスカレーションの繰り返し。たまにぱっと浮かんだことを雑談する先輩など。それくらい。仕事というものは学校とは違う。そういう交流の場でも無い。そんなことはとうにわかっている。この雰囲気に押し潰される程に。

なんといえばいいのだろう。

頭で考えていたものを常に人と話すことで吐き出していた自分にとって、その拠り所を今無理やり吐溜を作っては消化不良に陥っているという状態だ。

辛い。この状況を打破しなければと考えてはいるものの、SNSを用いたり、単にキーボードを延々と打ち、吐き出そう、吐き出そうと今に至っている。

今自分が置かれている環境が、いいのか、悪いのかなんて、自分にしかわからないのに、なんだか靄がかかったような、そんな気分でいる。

家族といつでも会える距離、地元の友人と会える距離、学校時代の友人と会えない距離...

関東から地元に戻り2ヶ月が経つ。3月の実家の引越しも、4月の上京も、9月の引越しも、全て、本当に大変であった。一生引越しなんてしないと思うほどに。こんな環境の変動に、身体は耐えられたが、精神は耐えることが出来なかった。

 

さて、何をいいたいのかよく分からなくなってきたが、今迷っていることは、「他人の幸せは他人の幸せ」ということを気持ちで受け止めきれない自分がいるということである。

4月から一人暮らしを始めて、家族からも友人からも、初めて解放された。

解放されたというのは大げさかもしれないが、「全部自分で決める状況にある」という事実が、自分にとってとても大きいものだったと思う。その中で、「自分としての幸せとは何か」を追求できた。「自分の欲の赴くままに行動すること」の意味を知った。今までどんなに周りを考えて行動していたのかを痛感した。考えすぎた人生だった。欲に関しては、まだまだ探究心はありあまるため、現在でもとことんソレと付き合っている。

他人のことなんて関係なく欲を満たせるようになってきた分、相手のことに対して嫉妬することも増えてしまった気がする。困ったものだ。自分の好きなように欲を満たせれば、幸せだという解の1つに辿りつけたと思ったら、弊害が生まれたように感じた。

「他人の幸せは他人の幸せ」のはずだが、その境遇に至っていない自分を不甲斐ないと思ったり、他人に嫉妬したり。この気持ちを友人などに1人にでも共有できれば、一番楽なのだと思う。吐き出せなくて、ここに吐き出している。

毎日眠たくなりながら、こんなことを考えつつ、日々を過ごしている。

やはり、吐きたいときにこうやって吐き出すと割りとスカっとするものである。

資格の勉強もしながら、吐きたいときに吐ければいいかなと思っている。